2010年05月

1961年、私は福岡学芸大学・中学課程・図工科に入学しました。
 学校は福岡分校で、校舎は西公園の現在の付属中学校のところにありました。
 入学すると、「新入生歓迎・阿蘇スケッチ旅行」の発表があり、わくわく気分でした。
 ところが、貸し切りバスではなく、博多駅から各駅停車の夜行列車で出発と言うところから夢が破れてきました。 
 座席は満席でデッキに座り込んで身動きできないまま、夜が明ける頃阿蘇に着きました。
寝ぼけまなこで朝食を済ませると、「今から絵を描く、一日5枚以上、必ず厚塗りで色を付けること」という課題が出ました。
 スケッチ道具を持ち、まず外輪山への登山から始まりました。
大観峰まで登ると阿蘇五岳が目の前に広がり、すばらしいパノラマ風景に感激しました。感動に浸るまもなくスケッチに取り掛かりました。四つ切り(B-3)画用紙に厚塗りと言うのは予想以上に手ごわく、描き上げたらまた次の絵に取り掛かることの連続でした。
次第に疲れがたまってくるとスケッチが単なる作業に見えてきて仲間同士、「こんなの無理だよね」と腹も立ってきました。
 それでもようやく5枚の絵を描き上げ、達成感も感じながら夜の批評会に臨みました。
ところが批評会といっても、先生から腐され、けなされ、まるで新入生いじめ会のようでした。
上級生は、「みんな、そうして成長するとばい」と言って笑って見ているので、悔しくなりました。
 翌日は中岳に登り、火山灰が降りかかる中で噴火口風景を描きました。
 連日休むゆとりもないスケッチ浸りでしたが、仲間同士で慰めあい、励ましあい、次第に連帯感が生まれてきました。
 水彩絵の具は厚塗りで使い、ペインティングナイフも初めて使いましたし、色を薄めるのに水ではなくホワイトを使うことを知りました。
 また、風景を細かい見方ではなく省略したり固まりとして表現することなどを体験をしました。
 入学後の甘い気分が吹っ飛ぶスケッチ旅行でしたが、短期間に集中していろいろな表現方法の経験が出来たし、この厚塗り不透明画法はその後から始めた油彩画のためにはとても役に立ったと思っています。
 その後はスケッチする場合も油彩画のトレーニングの意味もあり、不透明画が増えてきました。このホームページギャラリーには限られた数の作品しか出していませんが、アーカイブスの作品からもそのことをお感じいただけると思います。

 高校生の時の部活は美術部でした。
 福岡地区の高校の美術部で組織されている高校美術連盟というものがあり、毎年高美展という展覧会に応募することが私たちの大きな目標でした。
 応募作品は油絵が多かったのですが、私は水彩しかやってなかったので高三の時、迫力で負けないようにと初めて大きなB-2(半切) の紙に描こうと思いました。
 テーマは通学の時にいつも志免駅から見える選炭場の下にあるホッパーを描くことに決めました。
 夏休みのある日、下絵スケッチのために引込み線の線路伝いに入って行くと、守衛さんから呼び止められ「危ないからだめだ」と言われました。それであきらめたら作品が出来ないので、私が理由を説明して必死に頼みました。その気持ちが通じたのか、「貨車が通るので線路に入らないようにな!」と小さな声で許してくれました。
 この絵は地下から掘り出した石炭を貯め、漏斗状の口から下の貨車に落して鉄道で運び出す場所を描いたものです。
 二日間通ってようやく下絵が出来上がり、それを元に家で半切画用紙に拡大した作品に取り掛かりました。下描きは線の面白さを生かすために竹ペンに墨汁をつけて描き、水彩絵の具で仕上げました。絵が大きいので額縁も高く、小遣いは全部なくなりました。
 完成した作品は幸運にも高校美術連盟賞に入賞することが出来ました。
 この頃から、日本はエネルギー革命ということで、石炭から石油に替わり、炭坑の閉山が相次ぎました。そして戦前は海軍、戦後は国鉄経営であった志免炭坑もやがて閉山したのです。
 この作品は私の高校時代最後の年の記録であると同時に、志免炭坑設備の様子を表したひとつの記録なのかもしれません。

 糟屋郡志免町を流れている宇美川に水車橋があります。
 これは現在の水車橋ではなく、その前に架かっていた旧水車橋です。
 この旧水車橋の絵は私が高校生の頃、描いたものです。
木造の橋で所々に欄干がこわれていて、通学の小学生が毎日渡っていても危険な橋だというニュースにもならないのんびりした時代でした。
 その後、この橋は取り壊され、現在の橋に架け替えられました。
 工事の期間は人や自転車だけが通れる仮橋がありましたが、その絵もアーカイブスの中にありますからご覧下さい。
 現在は岩崎神社で石投げ相撲が行なわれているそうですが、私たちが子どもの頃は夏休みが終わる頃、この橋のたもとで行なわれていました。
 絵を見てお気付きだと思いますが水の色が褐色ですね。
 そうなんです、当時は糟屋炭田といって糟屋郡にはたくさんの炭坑があり、この宇美川上流の宇美町にも多くの炭坑がありました。石炭を洗うために石炭の粉が混じって炭坑地帯の川はみんなこんな色でした。
 小学生の時にスケッチでこの川を描いたのですが、忠実にこげ茶色で塗ると道路と間違えられて困ったことを覚えています。
 学校にはプールもなかったからこの濁った川でも泳ぎましたが、目を開けられないので子どもたちは水面から頭を出して泳いでいました。
 その頃の癖で、私の平泳ぎは現在も頭を水面から上げたままの、今では変則的な泳ぎ方です。