2010年06月

 1965年3月、大学を卒業し、その後筑紫郡春日中学校に美術講師として勤めました。

 ある日、バイクで通勤中に事故に遭い約一年間入院しました。傷がひどかったので、事故から半年後も金属パイプ・フレーム製の牽引器具を足につけベッドの上での生活でした。
 病室は古い木造で暗く、気が滅入りました。退屈しのぎに鉛筆でクロッキーをしている私を見かねたのか、看護婦さんが「ストレッチャーで外に行きましょうか?」と言ってくれました。
うれしくなって私は「その時に絵も描いてもいいですか?」と言いました。
 秋晴れの午後、半年振りに外の空気を吸いましたが太陽のまぶしさが目にしみました。
 ストレッチャーを二時間ほど外に放置してもらい、心地よい午後の日差しの中でやや逆光気味の医学部構内風景のスケッチを楽しみました。ストレッチャーの上は狭いながらも、久しぶりに絵筆を握る喜びでいっぱいでした。
 その後手術をしてギプスになると、毎日松葉杖をついて医学部構内のスケッチに出かけました。
 当時、医学部は建て替え中で、次々に美しいクラシック洋館建築の建物が消えていきました。
「壊れる前に記録を残そう」と思っていたので、入院中だけでなく退院後もたびたびスケッチに訪れました。
 アーカイブス作品の中に九大医学部のスケッチ作品が多いのはそんな理由もあるのです。

※現在は看護師さんと言うそうですが、当時のことなので看護婦さんと書いています。

 このところ、アーカイブスの中の作品から話題をとりあげてきました。
 先日、中州の日活ホテルのことを書いたら、とても懐かしいといってくださる方が何人もありましたので、今回は福岡市の西部を流れる室見川付近の作品を取り上げました。
 ただ、この作品は残念ながらアーカイブスの中には入っていません。

 この絵は1962年頃、室見川の土手から川越しに原、七隈方面を描いたものです。
 見渡す限りの田園風景で初夏とはいえ、真夏のような天気でした。
 あちらこちらからカラシ焼きの煙がまるでのろしのように立っていました。
 カラシ焼きは菜の花(アブラナ)の種が黒く熟れてから収穫し、種を取ったかすを麦わらなどと一緒に田んぼで焼いていました。
 カラシ焼きの季節はホタル狩りの頃でしたから、子どもの頃は夜もこの火を見ながらホタル狩りに行った思い出があります。
 この絵を描いてからまもなく50年、先日場所を確かめに同じところに行ってみました。
 筑肥線の鉄橋付近から描いたのですが、同じ場所とは思えないほど都会になっていました。
 山の形を確認しようとしても、ビルやマンションの間から切れ々にしか見えず、当時の面影は殆どありませんでした。目印だった筑肥線も今はなく、地下鉄に替わっています。
 土手の後ろに建っていたレンガ造りの(変電所だとか・・・)建物もなくなり、一帯は河畔公園として整備されウォーキングを楽しむ人々の姿がありました。
 ゆったりと流れる室見川の水の流れは当時のままに周りの風景を映し、その新しい室見川風景も次の絵の題材になりそうです。

 大学の美術科に入学したことで、たびたびカルトンに四つ切り画用紙を挟んでスケッチに出かけました。
ある日、授業が午前中で終わったので、中州風景を描きに行きました。
川岸に座り込み、那珂川に架かる橋と日活ホテルを描きました。
この日活ホテルは当時「石原裕次郎や吉永小百合が福岡に・・・」というニュースがあると、ここに泊まることで話題になりました。
となりにある赤っぽい建物は福岡大映という映画館で、那珂川に映るそれらの建物はまさに福岡市の中心街にふさわしい風景でした。
私は絵の具を不透明ふうに使っていたし、四つ切り画用紙に描いていたので消費量も多く、生徒用の安価なぺんてるFや、サクラマット水彩を使っていました。

やがて日活ホテルは城山ホテルになり、さらに取り壊されて左の写真にあるアクア博多に建て替わりました。
那珂川に架かる橋も新しく架け替えられ、残念ながらこの絵の中に当時のままのものは何一つ残っていません。
 この絵を見てなつかしいと思ってくださる方がいらっしゃればうれしいです。